日本を含め、世界の様々な国で民主主義が取られています。
その最も象徴的な行事は、選挙でしょう。人々の投票によって、議員だったり首長だったりを選出し、政治を代表して行ってもらいます。
そのため、民主主義と選挙は表裏一体のように考えられています。
しかし、選挙は本当に民主的に政治決定を下す手段だといえるでしょうか。
この記事では、その点を考えていきたいと思います。
人工知能の登場
人工知能が、徐々に人々の生活レベルにまで浸透し始めている。とはいっても、現時点での人工知能は、超統計学的予測装置のようなものである(と認識している)。
もし、AIが何かを言ってきたとしても、これはその確率が高かったというだけのことで、すなわち、人間の進化の上、または延長線上にいるだけだ。
すなわち、未だシンギュラリティは来ていないと認識している。人類の歴史というビッグデータによって、統計的に予測しても、ピカソのような爆発的な発明はきっと生まれないだろう。
爆発的な創造性は、人間の専売特許である。AIは知能の拡張機能にすぎない。
とまで書いたところで、では果たして人間のいったいどれだけが創造性に貢献できているだろうかという問いに突き当たる。
確かに、AIはまだ人類を凌駕していない。しかし、ほとんどの人間はもう追い越されているのだ。そんな気がした。私を含めて。
特に、私はしっかりと文部科学省の用意してくれたレールに乗って、優等生的な学生生活を送ってきたのだと自覚している。ロケットも人工衛星もあるとは知らずに。
このような前提と危機感のもとで、民主主義について考えてみたい。
数字で把握することの功罪
間違いなく、自分自身は自分自身の人生を、ストーリーを生きている。しかし、どこかで社会の歯車として機能し、全体性に飲み込まれながら生きているというきらいもある。
近代国家は、人間を同質化してきた。これは、欧米の文化が浸透して、異文化を上書きしていったという単純な議論ではなく、個人レベルの個性が減ったということだ。
先の「私固有のストーリー」というものがなくなったといってよい。
日本でも大正時代に大衆文化の波が来る。しかし、あのとき円本が売れ、ラジオ放送が始まったのは、地域性の崩壊の始まりであったし、個人の輪郭がフェイドアウトする端緒であった。
奇しくも、同時代はデモクラシーの盛り上がりを見せた。原敬が納税額の規定を引き下げ、加藤高明がそれを取り払う。市民が市民になった時代でもある(女性の選挙権は戦後まで待たなくてはならなかった)。
政治家は、自分の主義主張を述べ、わずかであっても国政へ反映させることができる。しかし、有権者の側はどうだろうか。
我々の1票は、ただの数だ。いくら投票をしたところで、議会人にとってはただのありがたい数にすぎない。その票を投じた個人に当然あるはずの数多のエピソードは捨象され、1票という平等な価値のもとに集約される。
昨今の投票率低下の問題もそこにあると思う。特に、政治にイデオロギー色がなくなってからは、均質な1票を思考停止状態で投じるのは、ただただ煩わしい。選挙によく行くのは、なんらかの団体に属しているため反強制される人か、教育で投票の大切さが刷り込まれた知識人層かのどちらかだ。
候補者の「代表」機能
もちろん、各政党や各候補者の中には、真摯に政治に取り組み、尽力しておられる方もいよう。そこを批判しているわけではない。
政治家への立候補には「代表する」という機能がある。実社会には様々な論点が存在し、それに対するいくつもの意見がある。これら争点を明確化し、多様な意見を集約し、結論へ結びつけるために、誰かが「代表」して議論しなくてはならない。
間接民主制の性だ。いや、民主制には固有なのかもしれない。
この「代表」機能の有用性を認めた上で、やはり個人に固有なものを再興する余地はあるはずだ。イデオロギーなき分断の根底にも、このような問題があるはずだ。
エビデンス重視の今の時代に、このような問題提起をしてみたい。